雑記

「音感覚論」にはいろいろ参考になる話が載っています。既にご存知の方もおられるでしょうが、書いてみたいと思います。

 

1. オルガンと違ってピアノは何故このように普及したのか    

HiFiに凝っていたころ、パイプオルガンはうまく再生してみたい楽器の1つでした。その中で気がついたことは、特に新しい時代の曲はとにかく「うるさい」ということでした。当時は自分の再生装置の性能が悪いからだ、と解釈していましたが、本書を読んで、必ずしも装置の所為だけではない、ということが判ってきました。これがピアノの普及と関係があるとも、その頃は知りませんでした。

オルガンはなぜ「うるさいか」については本書に詳しく書かれています。かいつまんで言うと、パイプオルガンの1本のパイプの音はフルートの音に似て、純音に近い音です。1音に1本ずつのパイプを割り当てれば、音階のすべての高さの音は出せますが、楽器としては退屈な楽器にしかなりません。そこでいろいろな音をパイプを組み合わせて作るのですが、これが問題を引き起こします。1つの音だけなら良いのですが、複数の音を同時に出すと、組み合わせているすべてのパイプ同士でうなりを発生します。純正律に調律してあるならまだしも、平均律などの調整律だとこれが顕著に現れ、新しい時代の曲のように沢山の音を組み合わせるほど、うるさい音になる、という訳です。

一方ピアノはどうかというと、複数の弦を同時にガンと叩いた時には、パイプオルガンと同様に、、多数の倍音同士のうなりが発生するのですが、ハンマーのフェルトで余計な倍音は押さえてしまい、残った音はあまりうるさくないようにできる、というのがミソで、平均律であってもうなりがあまり気にならない、きれいな音にできるという訳です。どのような倍音を残せばよいか、またそれを実現するにはどうすればよいかも本書に詳しく書かれています。この仕組みのお陰でベートーベンのように和音も不協和音もガンガン叩くという作曲法が確立したという次第。ちなみにリードオルガンも同様に1つのリードで倍音を沢山含んだ鋭い音が出ますので、沢山の音を同時に弾くと、和音の積もりであってもうるさい音になります。(2016.10.6)

 

2. やかましくない楽器、組み合わせの難しい楽器

パイプオルガンのパイプ(1音に1本の場合)と同様にフルート純音に近い音を出します。どちらも強く吹くと音程が変わる宿命がありますが、フルートの場合はまだ演奏者が調整できます。オルガンの場合、音程が変わらないようにして音を大きくするには同じ音のパイプを増やすしかないのですが、それはそれでまた別の問題を引き起こすことが書かれています。

フルートのような純音に近い音は音程の境界を定めるのが難しくなり、「1本のフルートの演奏会ほどぞっとするものhない」という冗談がある(p.338)が、和音を定める楽器と一緒に演奏すれば、こんな愛らしい楽器はない、とも述べています。

  クラリネットは円錐管で、偶数次の倍音を欠いているため、ヴァイオリンやオーボエと一緒に使うとき、同じ協和音であってもクラリネットが上の音を吹くか、下の音を吹くかでかなり違って響くに違いない、とその理由を詳しく説明しています。(p.346) (2016.10.7)

 

.3.  人間の声

人間の声で言えば、ソプラノは純音に近いため(金切り声は別として)やかましくなく、バスの声は倍音を多く含むためにやかましく聞こえます。男声合唱がガラガラという響きを持つのは男声の持つこの多くの倍音が関係しています。ヘルムホルツの頃には無かった電気音響機器で歪みを付け加えれば、このガラガラはさらに増強されるに違いありません。

老眼ならぬ老耳は高い音から聞こえにくくなります。話言葉は母音と子音とから成りますが、子音はいわば雑音で、周波数成分としては高く、母音は聞こえても子音が聞き取れないので、区別がつきにくくなります。老耳にとって男声の方が女声より聞き取りやすくなるのは、基音と倍音の周波数が低く、子音の量も多いからでしょう。 

 

4. 音の合成

ピアノのダンパーを上げておいて、弦に向かって大声で一定の音の高さで「アー」と歌うと、ピアノも「アー」と鳴り、「オー」と歌うと「オー」と鳴る、と書いています。それぞれの声を各弦の振動に分解しているわけですが、この逆をやれば声を合成できます。ヘルムホルツはまず1つの瓶の口をゴム管で吹き、そのあと倍の音の高さの瓶を吹いて両方の音を同時に聞くと、聞いている音が「ウー」から「オー」に変化する実験を行っています(103頁)。本書のあとの方で口のどの部分がどのような倍音を形成するのか詳しく調べていますが、いずれにせよ人間が口を形を瞬時に変えて、いろんな倍音が組み合わさったさまざまな母音を作る技を身につけたということは実に驚くべきことだ、と感じさせられます。さらに歌の場合、歌詞の母音の倍音と音程の倍音とは無関係ではありえず、したがって音の移行に対して歌詞はどうでもよいというわけではない、と指摘しています。

 

5.  弦の振動

弦はどのように振動しているかと聞かれると大方は真ん中が膨らんだ弦が中央の直線を跨いで、あっちへこっちへと動く姿を思い浮かべられることでしょう。物理の教科書でもそのような図を載せて、弦とその振動周波数の説明をしています。ところが実際の楽器で弦の中央を弾いたり、擦ったりすることはありません。そのとき弦っはまったく違う形で振動することをヘルムホルツは図で示しています(93頁)。その様子を高速撮影した良い動画があったのでが、削除されたみたいで見当たりません。でも次の動画でも波が弦の端から端まで往復している様子が分かります。

 

6.  位相

ヘルムホルツは合成音の音色がそれぞれの成分の位相に依存しないことを巧みな実験で証明しています。しかし今日の電子機器は立体音になっていて、左右のチャネルの位相が合っていないと(外付けのスピーカなら端子の接続を片側でけ変えれば実現できる)、おかしな音になります。空間の感覚も音感覚の1つですから、やはり位相を無関係と片付けることはできません。野生動物の場合、位相感覚を失えば捕食もままなrず、天敵の攻撃からも身を守れなくなるでしょう。

 

7.  微分音と和音

ヘルムホルツは友達に頼んでアラブの声明が4分音を使っていることを確認してもらっているものの、本書はあくまで西洋音階を基本として取り上げています。いつか専門の方にお聞きしたいと思っているのですが、東洋の音楽では微分音を多用していて、和音と相性がよくありません。というのは単純な数比のとき協和音となるので、それからずれた音を使う場合は不協和音になるからです。今の世は和音に旋律をつける音楽がもっぱら幅を利かせていますが、それには大音量、高速で音を出せる鍵盤楽器の普及が大いに与っているのでしょう。和洋折衷というよりは西洋音階にすり寄った邦楽の姿はどうにも受け入れ難いし、哀れに思えますが、将来もそうなのでしょうか。

 

8.ピュタゴラスのコンマ

微分音の感覚というのは東洋だけだと思ったらそれは間違いで、フレットの無い弦楽器奏者が常に直面している問題でもあります。本書でヘルムホルツは次のような実験を勧めています。「ヴァイオリンの各弦をG-D-A-Eの5度間隔で正確に調弦する(ピュタゴラスの5度)。A線上で人差し指でHの音を押さえ、E線と同時に弾き、きれいな4度の音を出す。その指の状態で今度はD線と同時に弾く。これは6度を形成するが、どうにも濁った音がする。きれいな6度の音にするためには押さえていた指を少し低い音に下げなければならない。つまり、ヴァイオリンで下からハ調の音階を弾いたとき、上のE(ミ)の音を開放弦で弾いてはならないのである...では実際にピアノ伴奏でヴァイオリンを弾くときはどうか。熟練のヴァイオリニストはピアノの音が出ている時はそれに合わせ、独奏になったら、自分の音階で弾いた」。

こんな芸当をやっているのであれば、西洋でも微分音の感覚は磨かれていると言えるのではないでしょうか。

 

9.  ヴィヴラート

本書で取り上げていない音楽美学上の問題の1つにヴィブラートがあります。鍵盤楽器の多くはヴィブラートを附けられませんが、声を含めてその他の多くの楽器はヴィブラートが附けられ、これを多用することによって鍵盤楽器との折り合いを付けている、とも言えるのではないでしょうか。ヴィブラートを附けられないハープにペダルが付いているというのも澄んだ音に必要だからでしょう。東洋の音楽ではあまりヴィブラートをつけない、というのもこれと関係があるのかもしれません。美空ひばりの歌が愛された理由の1つが、ヴィブラートを多用しない歌唱法にあったようにも思うのです。(2016.10.8)

 

10. ブラバンの居心地悪さ

孫が中学、高校でブラスバンドのトロンボーンを吹いていたので、コンサートは毎回聴きに行きました。威勢良くやっているときはまだ良いのですが、ゆっくりした部分ではハーモニーのしっくりしないので、居心地が悪い。倍音の系列が違う楽器を集めているのですから、何かひとつの音だけ合わせても、他の音では合わなくなるのは必然です。これを調整しながら吹くのは大変なのだろうな、といつも思うのでした。(2016.10.10)

 

11. SQの居心地の悪さ

本書でヘルムホルツは次のように書いています。「お互いによく練習した4 人の音楽愛好家が完全に純正に響く四重唱を歌うことができるということを時折聞く。著者の経験から言いたいのは、四重唱の歌以外まったくまたはほとんど歌わない、またそれだけをよくまた定期的に練習している若い男達の四重唱の方が、いつもピアノかオーケストラの伴奏で歌う教育を受けた独唱者たちの四重唱よりも完全に純正に聞こえることが多いということである。(p.527)」

新春オペラコンサートを聴くたびにこの言葉を思い起こすのですが、先日弦楽4重奏でも同じようなことがありました。それは弦楽4重奏団ではなく、あちこちのオケのパートリーダーたちの臨時SQで、演奏スタイルが統一されていないのは仕方がないとして、特にチェロは体を揺すって熱演なのですが、音程が時折上ずってしまって、和音を支えないので大変居心地が悪かったという次第。(2016.11.4)